虐待は自分が創り上げた事実である事を理解した2
続きを書きます。
今日は書きたい気分なので。
ハエが、うじゃうじゃたかっている
納豆ご飯を食べれと言われ、
仕方なく箸を茶碗に伸ばした。
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ひえ~、これって、いままでハエがたくさんいたご飯だよね。
これ食べるわけ?でも食べないと、またたくさん殴られる・・・・
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食べたときの感触を今でも覚えている。
納豆が、じんわりと柔らかく、
ご飯は生ぬるく、かなりおいしくない状態だ。
父親も居たとは思うけれど、
父親のコントロールも効かない状態の義母のため、
しかたなく、どんどん口に運ぶ。
そこから先は全く覚えていない・・・・・
が、
生まれたものがあった。
義母に対する恨みつらみが増えていった事を。
そうして感じた事、
「いつか殺してやる」
だった。
その母が、
かなり高額の商品を買ったり
周りの人にプレゼントをしたりしていた。
「家はお金もちなんだ」と勝手に解釈していたが、
それは全てが父親保証人の借金であった事が、数年後に私が理解する・・・
血のつながりの無い自分は来ている服もボロボロなのに。
周りの人々には、優しく振舞う。
かなり不思議に思った、
なぜこんな事が出来るのであろうか?と。
やがて小学校高学年になってくると様相は変化する。
私の体が大きくなってくるからだ。
そうすると女性である虐待母も考えるだろう。
「やばい」と。
こちらは「いつか殺してやる」と思っていたんだ。
ずっとね。
そうして11歳の時に突然、居なくなっていた・・・・
なんの前ぶれも無く・・・・・
何があったのかは?父親は口にしてくれなかった。
このころの自分は義母のことを大っ嫌いなのに、
「美人なママ(義母)」と言うようになっていたと思う。
お世辞でも言わないと、殺されかれないからね。
これが自分の防御反応だ。(本当は違うと思っていても)
やがて日が経ち、
私が高校生のころに札幌駅から野幌駅に帰ろうと
汽車に乗った時に、ババア(義母)を発見した。
電車の入り口に見知らぬ男と一緒に立っていた。
瞬時に思った、
「てめー、ぶっ殺してやる」
続く